「アルフォンス・エルリック」
呼ばれた声に振り向かなければよかった、とすぐに思ったが、後の祭り。
まずい、と頭を言葉が過ぎった。
今一番逢いたくない人がニヤリとこっちを見て笑みを浮かべる。
「こんな時間にどこへ行く」
「…兄さんと入れ違ったようなんで探しに行くだけです」
「ほぅ…それは鋼のがまだ帰らないから探しに行く、の間違いでは無いのか?」
彼はさも面白そうに指を顎に当てた。
大方兄さんとボクが口論でもして部屋を飛び出し、それを追い掛けようとしているとでも思っているんだろう。
全く馬鹿げている。
ボクが兄さんと口論になるなんてよくある事で、それでもそれが原因で部屋を飛び出すなんて事無いというのに。
貴方に一体ボクたちの何が解るのか。
「帰りが遅くなったボクを探すついでに散歩にでも出たんですよ」
「ならばここで待つ方が得策では無いのかな?またすれ違う可能性の方が高いだろう。何なら私が伝言を言付かっても良いのだか」
そうして少しでも兄さんの覚えをよくしたいのだろうか。それともボクに貸しでも作らせる気か。
こういう時程鎧の身体を有り難く思ったことは無い。どんな表情をしていても声色にさえ気をつけていれば相手に気取られることは無いのだから。
「お気遣い感謝します、だけどその必要はありませんし休暇中の貴方の手を煩わせるつもりもありません。兄さんが何処にいるか位は予測が付いていますから」
「ならば私も一緒に行こう。こんな夜遅くに子供を徘徊させる訳にはいかんからな」
こういう時だけコドモ扱い。本当に世の大人というものは己の都合の言い様にボク達を扱いたがる。
「結構です」
「つれないな」
「ボクが何を言っても軍則違反にも上官命令に逆らった事にもなりはしないでしょう?ともかく時間が勿体ないので失礼します」
「ならば私は此処で鋼のの帰りを待つとしよう」
本当にこの男は退く、と言う言葉を知らないらしい。その声色も顔も明らかにボクが兄さんと擦れ違うと確信しているようだ。
だけど、貴方は知らない。
兄さんが今此処に居ない本当の意味を。
「…鉄砲玉の兄に対してそこまでのご配慮本当に有難うございます。ですが無駄な時間を過ごすだけになりますから止めておいた方がいいですよ。兄は決して独りで此処には戻りはしませんから」
「何故だ」
「だって、兄さんはボクだけを望んでいる。ボク以外の誰も必要としていないのは貴方だって判っている事でしょう?」
やっとその目にボクに対してであろう不審と異常と困惑を彩る色が浮かんだ。
ほら、やっぱり貴方は何も判っていない。
「あの人はもうボク以外の何も必要としていない。ただゆっくりとたゆとう安らぎと平穏に身を委ね、ボクという存在に囚われる、それだけを望んでいる。どん
な甘い言葉だって暖かい腕だってあの人には唯の雑音や牢獄でしかなく、あの人が唯一聞き取れるのは当り前に囁かれるボクの声であの人がまどろむのは当然の
ように差し伸べられるボクの腕」
目の前にいるお前が思いを寄せる者の弟が実は弟という存在では無いのだと知らぬまま、その思いを寄せる者ですらお前がその目で見たままの存在では無いのだと知らぬままそうやって惑えばいい。
「貴方など…必要無い」
「狂ったかアルフォンス・エルリック!」
「狂う?ボクは正常ですよ…ああ、狂っているのかもしれませんね。貴方から見たらボクは狂っているのかもしれない。でも兄から見たらこれは正気の沙汰です
から。ボクが狂気に落ちたと云うのならば兄も共に堕ちていますよ…ボクが呼べばあの人は自ら望んで空を舞う羽根を切り落とし地に堕ちる」
「実の兄を日の当たらぬ場所へと引きずり込んだか!」
本当に、何も見えないらしい。
全ての本質、全ての真実を見い出さず表面だけをなぞって全てを知ったと満足するのだ。
その器の中に、どんな闇が淀んでいるのかも知らぬまま器の外郭を愛でているならば。
その前で器を割って中に潜むどろどろに溶けた膿に似た感情を見せてやろう。
真実を見い出せぬその目で事実を知ればいいのだ。
「貴方の目は節穴のようですね…幼いボクの手を引いて自分から狂気の淵に禁忌の路にと向かったのは誰でも無い兄だという事をもうお忘れか。ああ、貴方には
あの人が禁忌に触れた等どうでもいい事でしか無いのでしたね。あの人が自分に向けて心を砕いてくれるならそんな些細な事はどうでもいいと」
肉体が無くて本当に良かった。
もしあったならボクはきっと笑っていただろう。
目の前で殺気立つ形相で睨み着けるその男に向かって、冷ややかな笑みを投げていただろうから。
「望んでいるのでしょう?貴方の目に映るあの人が貴方に笑いかけ貴方の名を呼び貴方に向かって脚を開く事を」
「貴様…」
見開いた目が、ボクを睨み付ける。
その目から感情を隠す膜が剥げ落ちた。
馬鹿な男が、言葉の誘う侭にボクの手に乗る。
間抜けな小鳥が、網に架かった。
ある筈の無い自分の口がにやりと笑みを浮かべるのが判る。
「その感情のほうが傍から見たなら狂気の沙汰ではないのですか?まだ未成熟の身体に向ける性欲…しかも相手は男、軍の上部にはゆがんた性癖を持つ者が多い
らしいとは聞いていましたが貴方に迄それが及んでいるとは…どちらかと言えば貴方は受け身ではないかと思っていたんですがそれはボクの思い違いでしょう
か、それともどちらでも平気だと?貴方は…よもや兄を誰かの身代わりに抱くつもりですか?本当にその腕に抱きたかったもう失った誰かの身代わりに抱く?」
「いい加減に…っ!」
「それとも抱かれたかった相手の変わりに仕立て上げる?…ああ、それなら兄を飼い殺しにして調教し何れ貴方を抱くように躾ればいいだけか」
「私は、私はあれにそんな事を望んでは、いない…っ!」
「嘘はいけませんよロイ・マスタング。貴方がボクらも恩のある准将に想いを寄せていた事などとっくに調べが付いていることですから。そして貴方が女と遊びベッドを共にするのもその男に抱かれたいという願望を見抜かれぬ為に行っているのだという事も」
その言葉に、男の顔が見る間に青ざめていく。
貴方の本質などとっくに見抜いていた。
貴方が愛していたのは、あの人でしょう?
あのまっすぐで、全てを包み込む度量のあるあの優しすぎる人。
愛して愛して、だから愛していると伝えられなかったのは貴方の弱さ。
だからといって、あの人のその姿を誰かに重ねて見るなど許されない、許される訳が無い。
「ボクの存在を使って兄を飼い殺すのは簡単でしょうね、兄はボクを護る為ならどんな事でも出来る人だ。でもそんな事は決してさせはしない。あの人がボクの
為に束縛されることがあれば兄を殺してボクも死ぬ。兄の受ける束縛を解くには単純にボク独り消えればいいのだろうけれど、もし兄を解放するためにボクとい
う存在がこの世から消え兄を独りにすればあの人は確実にボクの後を追うだろうから。でもそうなれが兄さんの身体は誰が片付けるのか。この世界に残った愛し
た人の身体が誰かの手に渡り誰かの手に葬られ誰かの手で墓碑を刻まれ朽ちていくなんて許せない、許せる筈はない!」
「な…にを、云っている…」
「あの人の身体も心も全てボクのモノ、ボクだけがあの人の全てを終わらせることを許された、だからボクが殺して身体もきちんと処分する、そしてボクがこの血印をえぐれば全てはそこで終わる。しごく簡単な事ですよ」
男の中にあっただろう『ボク』と
目の前にいる『ボク』
考えても繋がる事の無いその人格差異。
虫も殺さぬようなおとなしい物わかりの良い子どもの顔と、狂気にまみれ殺意すら交える独占欲をさらけ出す男の顔。
貴方がボクだと思っていたのはただの仮面でしかなく、貴方が今見た狂気と言ったモノこそボクの本質。
理解できないという顔で見つめるその視線がいっそ心地良かった。
「ボクのただ一つの大切な綺麗なモノに貴方が触れることなど決して許しはしない」
あと一言で、言葉の罠に架かった獲物は息を止めるはず。
その時、時計が重く鐘をならす。
ああもうこんな時間だ、急がないと兄さんが待ってる。
貴方に構っている暇なんて無いのに。
「貴方と話していて無駄に時間を使ってしまいました、行かないと」
背を向けたボクに向かって待て、という声。
振り向けば、 地を這うような声が投げつけられた。
「貴様に鋼のは殺させない」
屈辱と畏怖に濡れた目でその人はボクを睨む。
やっぱり貴方は男好きのする顔ですよ、と言ってやりたかった。いやそれよりいっそその手の娼館や陰間にでも放り込んでやれば二度と変な気を起こしたりはしないだろうか。
「本当に貴方は人の話を聞かない人ですね、ボクに指図できるのは兄だけですから」
どちらにしろ、邪魔をするようであれば消えて貰うしかないだろう。
あの人には知られないよう、密やかに。
「兄さん、震えているかもしれないな。早く行かないと」
「待てと言っているだろう!」
切り裂くような声に、ボクは今度こそ振り向かず脚だけを止める。
「今此処で…貴方を対価に身体を取り戻したっていいんですよ。ボクは兄ほど優しくて出来た人間じゃあありませんから、邪魔な人間の命を重く考えようと思え
ないんですよ。たとえば貴方の様にボクの邪魔をする人間には。判ったならボクの邪魔をしないで下さいね?
ボクは兄を向かえにいかなきゃならないんですから。あの人が本当の狂気に目覚める前に」
「…何だと?」
「真実を晒しても貴方はその思いを貫けるのか?それでも兄さんを好きだと嘯けるのか」
止めてしまおう、この五月蝿い小鳥のさえずりを。
「本当に狂い始めているのは兄さんの方、あの人はボクに抱かれることで自我を保っている様なモノ。それが事実という事を貴方は知っておくべきだ。そしてボクらはずっと以前から…貴方に出会う前からそうすることでお互いの心を暖めあう事を知っていた」
「まさか」
「兄さんが寒いと凍えないようボクは兄さんを抱きしめる。その腕がなければあの人は……もういいでしょう?兄さんが待ってる」
背後の男が完全に自失状態に陥る。
この男はボクの策の内に堕ちた。
これでもう二度とおかしな真似はしないだろう。
もはや声も出ずボクを直視することも出来ないのを確かめて、ボクは優しく甘い声色で言葉を囁いた。
「さあ、お戻りください大佐…貴方が狂気に犯されて、ボクらが正気でいられるあいだに」