不意に、過去の情景が意識の表層を過ぎる。
 あれは何時の事だったか…そう思いつつアルフォンスは目を、開いた。
 開いた、という表現は正しくは無いのだが僅かな事にも認識を持っておかないとその感覚はついぞ鈍り出す。
 全方向の視界をヒトの狭まりに定めるやり方も馴れたものだ。
 そうして向けた視界に映るは最愛の、闇に浮かぶ黄金の光。唯一人の理解者、支配者そして隷属者。
 全てを秤に架けても余りある、唯一つの半身。
 その姿の先に見えるその、これから始める事の種と成るべきもの。
 アルフォンスは、それを思い巡らせそっとそっと笑みを浮かべた。






 深い地の底である筈のこの地に足を踏み入れ、ロイはただ目を見張る。
 あの時…この国を陰日向から操り動かしあまつさえ万人の命すら利用した計画の源流と彼等が対峙し、のち踏み込んだその情景とはあまりに変わり過ぎていた。
 怪しげな装置は一つを遺さず姿を滅し、ただただ広がる虚空の空間。
 照らす光は源を定められぬ異質なそれで。
 薄蒼い、しかしどよりとした澱みすら感じさせるそれにロイは奇妙な既視感を感じていた。
 似ている、と。
 あの時感じたそれにあまりにも似過ぎている、と。
 そう感じつつ、脚を踏み出す。
 途端響く、空を裂く音色。
 淡い光に同化した鋭い金属が、皮膚の下の肉の表面一枚を破り縫うように、刺さり貫く。
 ダメージと繋がるには乏しいそれだが計算し尽くされたかのように体に走る血管を縫ったその針痕からじわりと血が滲み、青い軍服を鈍く染めていく。
じわじわと体力を奪い、弱り切ったところで仕留めるやり方ならタチが悪い。ロイは小さく舌打ちし、いる筈であろう己が手の中から姿を消した手負いの獣の名を、呼んだ。
「……鋼、の」
 声だけが、反響を持ちつつも薄れ消える。
 このただ広いのみの空間に身を隠す術などある筈もなかろうに、返答は返らない。
 幾度かそんな虚しき呼び掛けを繰り返した頃だったか。
「いい加減にしたらどうだ?そんなに無駄に呼ばなくても聞こえている」
 聞き馴染む…しかしその色は記憶のそれと艶を僅か変えてしまった響きがロイの聴覚を捉らえた。

 視線を向ければ、何も誰もいなかった空間に人影ひとつ、ゆるりと存在を誇張する。
 淡い光に浮かぶそれは、幾分か精悍さすら携えそれでも幼い柔らかみを消さぬかんばせ。
 体つきも記憶にこびりついた残像と姿を変え、二つの時間を交じり合わせる危うさを見せる。
 これは事実、あれ、であるのかと。
 ロイは薄ら寒ささえ感じながらも、その姿を見た。
「今まで、何処にいた」
「相変わらず、上に立つ口調だな…大佐…じゃないか、あの後准将に格上げだったよな、マスタング殿?」
「茶化すのは止めないか!」
「茶化してなんかない…何処にいたってオレはオレだ、どうしても知りたいなら教えるがそれを聴けばアンタは確実にそれを後悔する。まあ選別代わりに答えてやってもいいけどな」
 選別、と。
 目の前の姿はそう言ってにぃと唇を笑みに変える。
 それが、まるで子供の悪戯の様な笑みだった事も誘い、ロイはくすりと笑みを返した。
「まるで変わらんな、お前は」
「……何処までもオレをあのときのままに扱うんだなアンタは。あれから一年…それとも二年か……いくら夜を超えたかもう覚えてはいない、だけどオレはもうお前の考えている生き物じゃあ無い」
「鋼の、何を言っている」
「鋼の名で呼ぶのは止めろ!」
 とうに返上しただろう、と言いたげに声を荒げ眉を寄せるその仕草に、ロイは思い出す。
 おおよそ二年程前に起きた、あの有り得ない出来事。
 そして拝命書と銀時計と一番心を砕きし者の名残をそのままに姿を消した、子供を。
「何故……姿を消した。私たちに、いや私に何も告げず、探すなと一言書き残しただけで消えた」
 狂気に堕ちた、鋼の錬金術師のあの姿を。
「答えろ…エドワード・エルリック!」
 だが、その言葉が発せられた瞬間に。
 世界が、どろりと色を変えた。
 何か重苦しいと感じる様なモノが、ロイの身体に降り掛かる。
「命令するな、オレに。オレに命令出来るのはただ一人だけ、オレに指図出来るのはただ一人だけ、オレに口答え出来るのはただ一人だけ、オレを意のままに出来るのは…この世で一人だけ、ただ一人だけだ。それ以外は許さない、許せない、許す気等無い!」
 瞬時に脳裏に走る、既視感。
「…エドワード……お前は」
 この言葉を、これに似た文節を何処かで聞いた筈だ。ロイはそう考え思考を定めようとした。
 だが闇の中、琥珀の瞳が光を受けて煌煌と灯りを持つ様に存在し、それは易々とロイの意識を縛る。
「お前達は最大のミスを犯している、あの時…あの場所でオレが発狂し精神を冒されたと判断をしたのはオレにとって有り難く幸せな事であったけれど、お前達 にとってそれは最大の判断ミスだった。狂うと言うのならオレはずっと以前から狂っていただろうし、あれを狂気と言うのならオレはお前に会う以前から狂気に 触れてそれと戯れそれに愛し蝕まれていた…闇の申し子は永遠にこの闇と存在せよと言う様に。そして深き縁はオレに真実の闇から生まれし者を授けオレはそれ に魅了された。それが計画上であったとしてもオレはあいつの存在が全てだった、それだけだった、それ以外等有り得なかったそれがオレの世界だっただからこ そ!」
 ぐ、と右の二の腕の辺りをまるで抱きすくめる様に、指がギチリと服に隠れた鋼の腕を握り込む。
「オレは、選択した…この世界を天秤にかける事を迫られてオレは選んだ。欺き、裏切り、全てに吐唾して罵られる事になろうとも、オレはオレの真実を見定めた…ただ一つの答えを…」
 そして、魅せたその表情にロイは目を見張った。
 余りに、柔らかなその笑みは。
 ただひとりのあの者にしか魅せぬものではなかったか!
「聞きたい、か……?聞きたいよ、なぁ……真実も知らず付せられるのは気持ちのいいもんじゃないから、答えてやるよ」
 握っていた左手がゆるりと鋼の二の腕を撫で上げる。
 お前には反論も拒否も肯定も許されぬと言う様に、エドワードは目を細めた。
「確かに、鎧と言う無機物と魂と言う存在を確かにしないモノがリンクし、そしてその魂が精神を持ってオレと繋がりその上で別空間上の肉体とも通ずる、と言 う状況下である以上その期限は限りなくもあり何時途切れるかとも知れぬものではあった。だからこそ、オレは確かに焦っていた、だがそれを見越してかは知ら ないがあの男はオレに取引を持ち込み、オレはそれを甘んじて受けた。それによってオレはこのままでは到底なし得ないであろう叡智を持ち、対価にあの男と同 じ人妖に変じた。だけれどそれはどうでもいい事でしかなかった、オレに必要だったのは『答え』だけだったから。それさえ叶えば、オレは取り戻せる…全て を」
 何を言おうとしているのか理解出来ない。
 今あの子供の口から発せられたそれは、果たして全うな言葉であるのか。
「だからこそ、オレ達は動いた……まさかあんなに簡単に引っかかるとは思いもしなかったがな。こっちの思い通りにアンタらが動いてくれたおかげでオレ達は 全く容易に事を運ぶ事が出来た。真実本物であったがオレにとっては既に紛い物となった魂の入れ物を用意し、その前でオレは気を振れさせてしまったかの様に 振るまいその存在を国家レヴェルで隠蔽させる、鋼の名を持つ錬金術師の存在を禁じさせればオレはそれ以外のものとして動き回れる…そう、こんな風に」
 ざわり、と肌の際の空気が泡立つ感覚。
「砦の中心を崩すにはまず城壁から…というだろう?」
 目の前にあった筈の金の髪は、ずるりとその表に闇色を流し。
 それ、は瞬く間にロイの目にも覚えのある姿へと転じたのだ。
「何処に行った、と言われればそれは側にいたと言うしかない。オレは姿を変えてお前の側で伺っていた……その機会、を」
「お、前……!」
『お前とはご挨拶ですね、お忘れですか准将…秘書官のエーリヒを』
 忘れる訳が無い、とロイは歯噛みする。
 エドワードが姿を消して数ヶ月、准将へと階級を転じた自分の前に現れたその余りに似過ぎた少年。
『毎日顔を突き合わせ何時しか私に甘い戯れ言を囁き終いにはこの身に触れ快楽を暴こうとし、その結果愛すべき鷹の眼様に痛い目にあわされたのは貴方自身ではありませんか?』
 自分と同じ様にかの一件で階級を上げ、部下を持つ立場となり副官としての業務が出来なくなったリザの代わりにと、配せられた少尉官を持つ錬金術師、アルマ・エーリヒ。
 黒い濡羽の髪、低く甘く響く声。
 それを覗けは、その姿はまさしくかの少年と同じものであったのだから。
『それもこれもこの顔がかのエドワードエルリックに似ているからだと聞き及んでいましたが……』
 エドワードのものとは明らかに違う響きを持った少年のその低い声が、くく、と凝った笑みを零す。
『代用品でも構わない、と私に手を出しかけた貴方も』
 そしてそれの尾を掴み被さりながら、本来のエドワードの声とエーリヒの声が同時にが発せられたのだ。
「まさか事実それが本物だった、は思わなかったのだろう?」
 にい、と唇が形取るその笑みに、ロイは己の判断不足を呪う。
 よくよく見たらば解る事だっただろうに、余りにに過ぎたその姿が、全く響きの違う声がそれを鈍らせた。
 そうだ、声だ。
 その声を聴くと何かを思い出す、その声を聴くと不可解な違和感を感じる、その声は自分の感情を逆立て反して閉じていく。
 闇の縁をなぞり逝く様なこの声の源を、ロイは思い巡らせた。
「エーリ、ヒ…erich…アルマ……al……まさか!」
「相変わらず、無能だな」
『本当にね…ロイマスタング、貴方は何も解ってはいない。あの時ボクがこの声できちんと教えてあげた筈……貴方の目は節穴のようですねと確かにボクがこの声で……あれほどキツく言い聞かせたと言うのに、もうお忘れか』
 呆れ返ったエドワードの声とは裏腹に、もう一つの声はゆったり甘ささえ見せて来る。
 だが、その声の指し示す意味をその正体を知り得た瞬間が、全ての幕が上がり落ちる瞬間でもあった。
 かつ、とエドワードがロイの間近に歩を寄せる。
 薄く笑ったままの表情で、左の薬指の皮膚を喰い破るとその指をすいと前へ伸ばした。
 はたりはたり、と紅い雫が石畳の床にしたたって落ちる。
『無機なるモノに定着させた魂の期限など誰も識り得ない、だからこそ一刻も早く全てを行わなければ成らなかった。仮染めの冷たい身体からその鋼鐵に記され た魂の宿る源を外し、本来のままがらんどうに成り果てたその遺物に形だけの徴を与えそれをあの人が確かにそのものだと言えば…誰もそれを疑わない。それが ボクの立てた仮説』
「何だ、と?」
『そしてその仮説そのままに貴方達はあの抜け殻をボクだと認識してくれたことは本当に感謝しますよ』
 ざわ、と闇を映した髪が本来の蜜色を取り戻す。
『確かにあの時あの鎧にはボクという一個体は存在していなかった。だがボクはずっとあの場で全てを静観していた…魂を交じらせ精神を繋ぎ共有する唯一人の 愛しい彼の人がボクを引き戻した証でもある冷たい鋼鉄の一部に宿り、繋げられた神経からこのエドワードエルリックという個体存在をボクの統治下に治めるほ どに交じりあい繋がりあいそして貴方の前に立った…全くの別人として』
 金の髪も瞳もあの子供のものそのままだというのに、その浮かべる笑みも声色も何もかもが全くの異形。
 これは本当にあの鎧に宿りし咎持つ子供なのかと、ロイは未だ困惑のただ中に己を置く。
『貴方は、見抜く瞳を兄を手に入れたかの錯覚に寄って曇らせた。ボクが兄を置いて独り逝く筈がある訳無い、確かにそう貴方に行った筈なのに貴方は目の前に差し出されたいけにえの羊に全ての判断を奪われた…』
「お前達は……」
『ああ解っているよ兄さん、大丈夫。援軍が来てもここまで辿り着けはしない…共に入り込んだ人達も今頃は…ボク等の声を聴き入れた彼等が今頃』
「一体何をしようとしている!」
 そうロイが叫んだのと。
 ぱぁん、と鋼と生身の掌が奏でる音が響いたのはどちらが先であったのか。
 コバルトの炎光が、彼の足元から広がり見る間に石畳を埋めゆらりと浮かび上がるは強大な錬成陣。複雑に絡み合った構築式は一瞥ではその指す意味すら読解を赦すことも無くもしそれを紐解くことが可能であるとすればそれはこの世界にもはや二人しか存在を許されない。
『兄さんの身体はもはやヒトのそれというより個一存在…プリママテリアに程近い存在となっている。だがそれを餌に釣りをして扉を顕してもそれを開けるのに 必要な鍵はボク等では成り得ない。だからこそ貴方をここまで誘いその足を留めさせた…貴方が兄の声を聴き捨てる訳が無いのだから』
 放たれる言葉に気を取られロイは気付かない。
 己の流した血が構築式の中へと取り込まれ、床についた手の平は煌々と錬成光を発し。
 伴いごぅ、と陣の中央に黒い奈落が産まれずるりと闇が手を伸ばして来たその、事を。


『さあ、扉とその鍵は今……ここにある』


 言葉を聞くか聞かないか。
 声は届くか届かぬか。
 瞬間、世界は白く反転する。
 そして背後でバクン、と重く開く何かの、音。
 するするとのびた黒いそれが、ロイに取りすがり触れた側からばらりと分解していく。
 引き込まれる最中に扉の端に届く、と決死で伸ばしたその腕は。
 ガシリ、と背後から掴まれた。
「……兄さんの為に……その全てを捧げてもらう……」
 振り向いた、その先にあったのは仄暗い月の様な金を持った…そうあの子供に何処か似ていてそれでも全く違う個体を主張する、ひとりの姿。
 にぃ、と笑み何かを囁いたその表情を最後に。
 ロイの記憶はブツリ、と途切れて闇に消えた。









「………ああ、目を覚ましたみたいだ……」
 何処か遠い所に声を感じ、ロイは霞む意識を無理矢理定める。
 未だ焦点を結ばぬ視界に見えたのは青い軍服を纏う金の人影二つ。
「随分と寝坊だな」
「兄さん、そんなに言ったら可哀想だよ……まあ、そんな事はいいけれど、どうですか?ボクの声は聞こえていますか?」
 ちらちらと手を目の前で振られ、解ると首を振り返そうとしたが身体は思う様に動こうとしない。
「動く事は出来ないと思いますから、そのままで。怪我自体は右腕と両足の全損傷です、あと声帯を潰されていますので声は出ないかと……さて、ボクが誰だかはもうお解りですね?」
 解らない訳がない、とロイは歯噛みする。
 この、青年はまさしくあの弟で彼の横にいるのはあの子供。
 だが、この姿は一体どうした事だ。
 記憶のそれ等とうに追い越して、子供は青年へと姿を移し替えているのだ。
「面倒な説明は抜いて直接貴方に必要な情報だけを差し上げます」
 それを察したか、弟…アルフォンスが含み笑いとも取れる息を吐いて言葉を続ける。
「ロイマスタング、と言う軍人は公的資料上でも確かに死亡しています。今では英霊として軍葬され墓地に祭られていますからね。何年前でしたか…そうそう二 年程前、ロイマスタング中将は作戦の中で部下を守りエルリック兄弟を危機から救う為に命を賭して戦った…と。素晴しき物語ですよ」
 クク、と笑う声は、確かにあの日闇の中でエドワードの姿を取ったモノの口から零れたあの声と同じもの。
 だが、その姿はあの偽りの姿等みじんも残す事の無い完成された男のそれへと転じ切っている。
「さて…死んだ筈の貴方が何故ここで生きているのか…その理由をお教えしましょう。まずは己の姿を確かめて頂きましょうか…兄さん、鏡を彼の前へ」
「……ああ」
 静かに、空気が動く。
 以前確かに聞いたあの重たい足音は何処にも聞こえず左右同じ重さの音を奏でつつ近づいた気配が、ついとロイの眼前に鏡を差し出した。
「……その目で見ろ。これが、お前だ」
 差し出されたガラス面に映るその姿に、ロイは目を疑う。
 黒い髪はそのままだがその長さは天地程の差を持って流れ、瞳は暗い琥珀、そしてその顔はまさしく己が恋い焦がれた子供のそれと同じ、モノ。
 それは、まさしく兄弟が作り上げた偽りの姿。
「……貴方の存在を対価に、ボクは存在を取り戻した。だけれどその『流れ』は魂も肉体の構成物もいらないとその存在以外は全て吐き出されてしまった。仕方無いから残っていた賢者の石のなりそこないと貴方の残骸でもう一度貴方の為に身体を作り上げた」
「生きている人間ならその錬成は可能だからな。だが…存在を失ったものを再び作る事は不可能」
 抑揚のない声は、記憶の子供のそれとは明らかに距離を持ち何よりの悲痛すら呼ぶ。
 だが、それは感情を抑えていると言うよりも何か楽しくて仕方無いがそれを押さえ出さぬ様にしている様にも感じ。
「だが、アルマと言う存在は元より作られた存在であり、姿は存在するがそのもの自体は存在しない。存在だけを奪われたものと存在しか残っていないものを結 びつけるのは容易だった…それにオレ達にはまだその姿は必要だったからな…オレ達がこの先何者にも妨げられる事なく生きていく為に」
 その放たれた詞の彩は無邪気に笑い残忍に美しき蝶の羽根を毟りとる子供のような鮮やかさ。
 定まり始めた視野思考にもたらすには、余りにも強く鋭利な、現実。
「だからこそ、オレはお前をその姿に定めた…それによって全てが円滑に流れる事も予測した上で。そして何よりオレ達に…いや、オレにとってお前の存在 は……何の意味すらない。お前がオレを欲していたのは知ってはいたがオレの全てはとうにアルのものでオレの全てはアルにしか渡さない…アル以外のものは、 オレにとっては無と同等だ」
 まだ若干過去の面影を残すかんばせが、それはそれは美しい笑みを、浮かべた。
「ロイマスタングなんていらないんだよ、勘違いで無能な馬鹿な男なんて消えても何の痛みもない」
 愛している、と言い出しそうなその唇から零れた言葉は真逆のそれ。
 屈辱とも取れるそれに感情が焼かれる気配にロイがぎりと唇を噛み締めたのを気づいたか、アルフォンスが静かにエドワードの肩に手を置いた。
「兄さん、それくらいにしてあげて?この先の説明が出来なくなる」
「……ああ、そうだなお前が言うなら、アルフォンス」
 うっとりと、流した視線にはもはやアルフォンスしか映してはいない。
 ありありと狂喜を映すそれを見せつける様にくつくつと笑う声と共に兄の耳に口を寄せるアルフォンスすらもはやロイの存在をヒト、とは思っていないのだ。
 己の存在を失い、動きさえも封じ、叫ぶ事すら出来なくて。
「ロイマスタング、貴方は今後アルマとして生きて頂きます…ですが」
 ロイは思考の中これは夢だ、と繰り返し唱えた。
「アルマ・エーリヒにはエルリック兄弟への誘拐、脅迫と殺害未遂、そしてロイマスタング殺害の容疑が係っています。あの場所へマスタング准将を誘導しエルリック兄弟と共に亡き者とし、この国を動乱に巻き込もうとしたと言う罪の、ね」
 悪い夢なのだ、自分はきっと夢を見ているのだと。
「貴方が動ける等になり次第軍法会議にかけられる事がすでに決定しています。証拠も既にキチリと揃えられているとの事ですから間違いなく貴方は処刑と言う事になる。ですが」
 だが、それが夢ではないと言う様にアルフォンスがにこりと笑ってその手をロイの頬に当てて視線を絡ませた。
「せめてもの情けです…ボクが弁護に立って差し上げますよ……それで貴方がどうなろうが知った事ではありませんがね。ボクに取っても貴方と言う存在は…… 今すぐにでも抹消したいんだ、その姿であったとしてもその本質は貴方でしかない…あれだけあの時忠告したと言うのに貴方は何故ボク等に近づいた、近づかね ば生きながらえられたと言うのに何故ボク等の征く路を遮った……これは、貴方自身が招いた事だと身を以て知るがいい、浅はかで哀れな、理解し識る事を忘れ た愚か者」
 そして、それは冷たい視線で、ロイの思考を焼き尽くす。
 精神が、ちりちりと音を立てる。
 脳が恐ろしい力で締め付けられる様な痛みが、襲う。
 苦しい、苦しいと足掻こうともまるで塞き止めた様にそれが内腑を駆け巡る。
 ぶすぶすと音を立てて、神経回路が溶けていく。
 見えている筈の視界が、赤黒く変色し映るモノが歪み色と形を代えてロイの世界を変えて逝く。


 もう、逃げ道は無い。
 少し前に聞いた筈のそれを、確かに知っている何かがロイの腕を掴んで静かに聴覚に声を注ぎ込む。
 モウ、ニゲラレナイ。


「では、今はゆっくり休んで早く回復して下さい……また、来ます」
 がたり、とドアが開き閉じた後、その部屋に残るは一人の気配。
 最後の声も届いたのか解らぬままに、ベッドの中動く事も出来ぬそのヒトから音、が迸った。
 ひとしきり流れた大音響が途切れた時。
 ベッドの中のヒトであった筈のものは、温度と音を失ったモノへと成り果てていた。





 それは本当に人のモノか、と言う様な叫び声が隔離病棟の中に響き渡る。
「……以外と持たなかったな、あれじゃ会議なんて掛けられない…まあそれでいいか」
「あんなものに心を砕かなくていいんだよ兄さん。貴方はボクの声だけ聞いていればいい……いいね?」
 そっと囁き、注ぎ込む耳朶にそのまま舌を這わせれば緩やかに上がる甘い声。
「ああ、そうだ、な……」
 静かに笑って身体を預ける兄の背を護る様に抱き締めながら、アルフォンスは最愛の兄に気取られぬよう笑みを浮かべる。
 それは、酷く冷たく鋭利な水晶の硬度を持つ、それ。
 もう、誰も自分たちを妨げるものはいないのだと確信する、笑み。
 そして、己だけが開けられる籠の中の小鳥を腕に抱きとめて。
 アルフォンスはそっとそっと煙る月の様な琥珀の瞳を、閉じた。




  Das Ende.


 
 

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