「……それで、いいのならボクは全てを貴方に投げ出す」
 それは、歌うような声だった。
「────ア、ル?」
「それが、貴方の本当の希みならばボクは全てを捧げよう」
 銃を掲げたまま凍り付いたエドワードに微笑みかけながら、アルフォンスは一歩、また一歩とその距離を縮めて行く。
「貴方がそうしたいのならば。貴方のいない世界など何の価値も無い…そう思い知らされて、探して探して貴方をこの手に留める事、ただそれだけを望んでいる と言うのに、ボクは今どんな悦楽より強く貴方を感じている。貴方の血がボクの細胞を浸食して行くこの熱はまるで貴方がボクに触れ、その熱で貴方を犯し犯さ れているような気分になる……貴方に触れてもいないと言うのに────その姿を見つめて熱を感じるだけで、イきそうだ……」
「この期に及んで何かと思えば」
「事実、だろ?」
 ついと浮かべた笑みが唇に妖しいまでの艶を添えた。
「貴方を愛して貧り尽くしてしまいたい…その衝動を一体何年押し殺していたと思っているんだ…ボクはただ、貴方が欲しいだけ」
 そう言って、アルフォンスはまた一歩その距離を縮めようと足を踏み出す。
 その姿にエドワードは銃を降ろす事無く深い息をついてそっと瞼を降ろした。
「それだけなんだよ…さあ、素直にこの手を取るんだ…兄さん」
「…指図は、受けない…」
「違うよ、これは…命令だ」
 ぎらりと瞳は先の腐蝕のそれとは違う昏い黄金に色彩を変えて開かぬ瞼の下に息づく琥珀を捉らえんとする。瞳の持つ支配の力で事を最小に押さえ正気の兄から是の答えを引き出し全てを終わらせようというアルフォンスの策であった。
 しかし、次の瞬間その目論見は無惨に潰える。
「命令、だ…?」
 閉じた瞳はそのままに銃を降ろしたエドワードの唇がまがまがしく歪んだ。
「は、笑わせるな…お前が、このオレに強制を強いる、だと?」
 すい、と瞼が緩やかに押し上がる。
 視てはいけない、と何処かで警告が聞こえた気が、した。
「オレに何かを強いるなどお前が出来る筈が無い。お前が隷属の鎖から解き放たれてはいない事を知らないのは、お前ただ一人」
 緩やかに上がった瞼の下、存在したのは、確かに彼の瞳。
 だがそれは、花薫を綴込む蜂蜜を溶かした琥珀では無く。
 だと言って、真夏の輝陽の光を封じ込めた黄金でも無く。
 そうそれは、何かを遠く越えてしまったまばゆさだった。
 先までのトパーズとは彩を違えたとろりと朱く熔ける黄金、その朱金の光彩の中にちらちらと爆ぜる火の粉のような深紅が躍る。
 その眼を。
 視てはいけないと本能が叫んだ警告を理解していながら。
 アルフォンスは確かに『観て』しまったのだ。
 それは、『魔眼』だ。
 クロニクルの持つ支配の光など比べ物に成らないその力。
 一見しただけで捉え絡めその意思すら奪い去る、邪なる瞳。
 全てを見、全てを理解し、全てを分解し、全てを構築する。
 神代の魔術師が持つと言われた、神秘の輝きを宿す瞳。
 既に忘却されて久しいそれが今、兄の瞳で確かに息づいていた。
 ばちり、と頭の奥でなにか留め金が外れたような感覚。
 そして、己の意と反して身体は手繰る糸を断ち切られたかの様にかくりと力を失い弛緩したそれをどうにも出来ぬまま崩れ落ちる。
「お前の全ては、未だオレの掌の中。オレにただ一つ残ったこの瞳が有る限りお前はオレという繰り手の穿つ糸から逃れることは…出来ない」
 何故、と。
 悠然と笑む兄に問い糾したかった。
 だが身体の全ては己の意に従おうとせず、唯一自由を許された眼球のみが兄の姿を追う。
「さぁアルフォンス…戯れはお終いだ」
 己の直ぐ脇にひざまづいたエドワードの指がくいと招くように曲げられた。
 ゆら、と何の支えも補助も無く身体を持ち上げると上半身を起こした体制でアルフォンスはその姿を縫い留める。
「言ったよなぁ、アル…?オレがお前を餌とするかお前がオレを贄とするかだと」
 くく、と押し殺した笑声と共に触れた舌がちろりと頚を舐め、筋肉の感触を楽しむように甘噛みを繰り返した。つぷりと僅かに沈んだ牙が皮膚といくばくかの肉を裂き、滲む赤い血を仔猫の様に舐め取っていく。
 捕らえた獲物を捕食する前に弄ぶかのようなその姿を見て、彼が既にその血統から解き放たれた存在だと誰が信じようか。
 正しくそれは、捕食者の築きし錐の頂点に立つ可き者の、在る可き姿。
 やはり彼こそが総てを組み敷き君臨するべき王で在るのだ、と。
 アルフォンスは今更ながらに思った。
 優しい表情の下に残虐な真実を隠し遮るモノ総てを殲滅していく己とは真逆のその性質。
 冷酷かつ残忍で、そのくせ非情になれぬ優し過ぎる人。


 だから、こそ。


 固執というものを識らない自分が唯一腕の中に留めたいと願った。
 唯一無二の、至高の光。

「貴方、を…ボクはずっと…さがしつづけたんだ、よ……兄さ、ん」

 それは、決して声になりはしない。
 だが、唇の震えは捕らえた筈。
 届かぬ事を願い、識られぬ事を望みそれでもなお。

「貴方の…内部、で…ひとつになっ…て……」

 貴方に真実を聴いて欲しいと希みを託して。

「生きら、れ…るな、ら……」

 アルフォンスは聞かれぬ告白を間近に触れた兄の耳朶に囁いた。

「ボクは…想う者の無い久遠、の世界よりも…愛する貴方と在る刻限の、世界にありたい…ただ、それだけ…なんだ…」


 ああ、それは。
 愛しき者の心からの願い。
 路を違えたあの遠き昔。
 共に、永久に在れぬなら、永遠を切り捨ててしまえばいい、と。
 柔らかに微笑んだあの清らかな闇を孕んだまま。
 何故手を離してしまったのだろう。
 あんなにも愛していた、のに。


 温かな水滴がはたりと落ちて、小さな牙傷を滲ませた。
 それが涙だと確認も出来ぬまま、エドワードは緩やかに言葉を紡ぎだす。
「さぁ、眼を綴じるんだ…そして一時闇をたゆとう…」
 余りにゆったりとしたその言葉の意図を掴みかねて視線を泳がせるとその端に柔らかな肌が、映る。
 それは、ゆるりと視界の内に入り込み、懐かしい表情を象った。
「大丈夫だよアル」
 正しくそれは。
 優しい兄の、そのかんばせ。
 それを見てしまった、だから気付け無かったのだ。
「兄ちゃんはもう何処にも、行かない」
 ズン、と身体では無く精神に負荷が係る。
 自由だったはずの瞳は帳を降ろし、聞こえる声は強制力を持って魂すら汚染する。
 緩やかに流れた声の裏側に存在したのは隷属の咒。
 それは、二重咒法詠唱。
 聞き取れぬ周波で声の下密やかに紡がれたそれから兄の声に溺れたアルフォンスが逃れられる訳が無い。
 それに加えて、魔眼の効力が重なるそれは、通常の強制力では無く。
 ぐらぐらと揺れる意識の中に駆け巡る兄の声だけが、アルフォンスの心に広かっていく。

「さあ、兄ちゃんがパンと手を鳴らしたらお前は目を覚ますんだ…」

 ああ、それは優しい兄の声。
 幼い自分の手を引いて、外には出れないと城の中で方々駆け巡ったあの、懐かしき日々。

「覚えてるだろ?かくれんぼ、だよ」

 何時もいつも見つけるのは自分で、隠れるのは兄。
 どうしても兄を見つけられなくていつも泣き出す自分のために、手を鳴らして場所を教えてくれた、兄。

「そしてお前がオレを見つけたらお前は  を取り戻し、そしてオレが上げるお菓子を食べて  を取り戻す」

 見つければ兄は、甘くて美味しい蜂蜜を溶かした蒲公英色のビスケットや砂糖で白く化粧したショコラマシマロを魔法の様に取り出して口に入れてくれたのだ。

「ご褒美、だよ…アル」

 そう、そう言って……笑っ  て      






 パン、と。
 乾いた音が、木霊する。
 言われたままに見開かれた瞳に映った兄の口元から一筋赤い血が流れていた事にアルフォンスが気付く事は無い。
 その瞳は、輝くばかりの黄金へと色を変え。
 瞳孔は獣の様にキュと収縮し、がと開いた口から覗く牙は先とは違うはっきりとした捕食者のそれ。
 そして。

 誘う様に伸ばされた手を掴み引き寄せると、アルフォンスはエドワードの首筋にその牙を、突き立てる。


 甘い、だろう……?、と。
 荒い息の下、エドワードの声が掠れて、消えた。

















 遠い所で、何か……誰かが、泣いている。
 声を上げて泣いていたその人は、腕に抱いた人をそっと下ろすとゆらりと歩き出した。
 血染めの金の髪をばらりと流し、切り裂いた己の右手首から流れ落ちるそれで雪花石膏の上に赤い紅い構築式を綴っていく。
 あかいあかい、それは。
 禁じられた、術式。
 砕かれた核を、己の肉体の一部と己の存在……クロニクルの対極に立つ存在に転じる事……を対価にもう一度繋ぎ合わせる術。
 一族の長とその血を継ぐと定められた後継者のみが識りうる、赦されざる法。
 其れを為そう、としていると言う事は。
 床の上身じろぎ一つしない人が、その状態であると言う事だ。
 そして。
 己の存在を投げ捨ててでも助けたいと思う程の強く激しい『思念』がそこに存在している、と言うこと。
 一度腕から離した人をその人は抱え上げて描かれた複雑な陣の上に横たえる。
 そして、紅く染まっていたその胸元へ手首から未だ滴る紅い雫を幾ばくか落とし、その人は陣の縁に居を定めた。

『……お前は帰るんだ……お前の…在るべき場所へ』

 詞と共に、バチリと蒼い光が両の腕に小さな雷の蛇のごとく纏わり憑いていく。
 描かれた紅い陣からも蒼い光が溢れ、横たわる人を包み込み辺りを蒼白く発光させる。
 そして、その陣と水平に中空に現れたのは黒く深く口を開ける、闇の門。
 その、闇の深きから放たれた黒き雷の蛇が、その人を捕らえた。

『……ああ、持っていけ……盟約の通りにまずはオレの血統と…そうだな、ならばこの腕一つ。そして』

 うねり、身体を確かめる様に螺旋を作り這い回る翼持つ黒き二対の蛇。
 そして喰いちぎられる腕、瞬く間に色を変える瞳、流れ落ちる涙、奪われる血と言う絆。

『何時かオレは、全てをコイツに捧げて…コイツがこのために失った力を取り戻させて時を終える。それまでは……』

 悲しい哀しいこの情景は、この術師の記憶。
 永遠の誓、永遠の願い、そして永遠の呪縛。
 失うは暖かな刻、愛すべき温もり。
 得るは深淵の闇、苦渋の絶対零度。
 それども、それでも、失い失わさせたとしても。

『オレはただ、お前に笑って欲しかったんだ……アルフォンス』

 ぐ、と残された左の掌が握り込まれる。

『Heil、Sie bitten unser!』

 色を失った唇から、高らかに仕上げとも言うべき詠唱が放たれた。



『Was unser anbetrifft werden Sie der goldene Verwandte, der glanzen kann. 
我は輝ける黄金の血族なり
 Was uns anbetrifft die Person, die die Schwarzung anordnet, die Heiligem steht. 
 我らは聖なる闇を統べし者
 Sie tut, um den Vertrag mit der Schlange der Spirale zu empfangen, der Nachkomme der Person wird.
 螺旋なる蛇との契約を受けし者の末裔なり
 Sie tut, durch die Abstammung, der Ursprung des Bundnisses ungefahr ubermittelt zu werden, unser bittet und bittet. 
 その血統に伝えられし盟約の元、我は願い請う
 Durch was unser anbetrifft der Ursprung unserer Vorsehung, zeichnen Sie unser Blut.
 我は我の加護の元、我が血を以て描く
 Unser wird der Nachkomme des Schutzes der Schwarzung. 
 我は闇の守護の末裔なり
 Sie wird getan und sie kauft mit dem Blut des Nachkommen. 
 されば末裔の血を持って購う
 Unser Blut, unser Fleisch, unser Bestehen alles als Opfer. 
 我が血、我が肉、我が存在全てを贄として
 Leben der Person der meisten Liebe jetzt ist es, hier zu unterstutzen!
 最愛の者の命を今ここに繋ぎ止めん
 Durch und, was Gedachtnis und Energie anbetrifft dieser Person unser Blut belebt es wieder.
 そして、この者の記憶と力は我が血を以て甦らん 
 Was unser anbetrifft die Person, die rotem kommendem Gold folgt. 
 我は朱き黄金を継ぎし者
 Wenn es, grobe Wahrheit, antworten Sie auf unsere Stimme!』

 さすれば偉大なる真理よ、我が声に答えよ





 グワリ、と黒と白の光が膨れ上がり、辺りを充たし覆い尽くす。
 意識を縛る、甘い血の薫り。
 そして、緩やかに解けた光の海のなか。
 ごそりと付根から右腕を失ったその人が横たわる人の頬に手を寄せ、そっとそっと唇を触れさせた。
 ただただ、血の薫りが、噎せ返るその場で。
 金の髪に、金の瞳。
 その中に赤い紅い毒を抱いて。
 その人は切り離された、のだ。
 その者の名は。
 クロニクルの第一継承者であり、人の血を引いたが為にAustauschen des Kindesと呼ばれた、稀代の錬金術師Edward Elric。


 アルフォンスの、ただ一人の、兄。
















 閉じていた記憶を覗き見たら。
 己の世界は偽りに閉ざされていた。
 その閉じた門を開いたら。
 閉じていたその目を開けたら。
 世界が。
 腕の中にある、世界と等しい存在が。
 赤く、黒く染まっていた。




「うあああああぁぁぁぁぁぁっっっっ!」






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