月は、十六夜の標を曝し。
闇は、一切を覆い尽くす。
蒼いそのなかに燈るそは、破魔の輝き。
流れより別れその手を幾度ともがらの命に染めようと。
望むべき安寧は、得られはしない。
それこそが。
禁忌を暴きし者が身にうたがれし永劫の宿命と。
ただ、信じていた。
純白い御影の十字架は、その淀みの中ですら煌々と存在を著していた。
だが、その御許。
説法を説く司祭が座すべき場所にあるのは神の御心を説くモノでは無い。
燈る淡い蝋燭のなか、照り返しの闇より暗い黒を切り取ったかの、姿。
足元には既に人成らざるものへ転化した娘がびちゃりと水音を立てその腕に抱くヒトガタの首をなぶる。
いや、決してそれはヒトの形を模した玩具ではない。あらわにされた白い胸元は今だ僅かに上下を繰り返し、虚に開かれた瞼の下の光は未だ潰えてはいない。
それは、生きたヒト、だ。
喰いちぎられた首から止まることを忘れたように流れる血を、啜られて。
失血ではない何等かの束縛にその身体は捕われたまま。
弱く揺れる唇が紡ぐのは確かに聖詞であったが、彼らにそれが効かない事は何よりその娘が一番よく識っている、筈だ。
無惨に血と泥に塗れた真白な着衣には同じ色で細かく祈句が刺繍され、あらわになった胸元には小さな十字の刻印。そして引き千切られ打ち捨てられた、聖別された金属で造られた銀鎖の御標。
神に仕えし清き娘が神を識らぬ彼等に敵わぬこと等、道理。
教えを唱え賛美を唄おうともそれを信じぬモノには何等かの結果も生み出しはしない。
だが、娘は立ち向かったのだ。逃げる事を知らない訳ではなかったが、己が向かわねば犠牲が増える事をちゃんと理解していたのだ。
なんと敬謙な自己犠牲か。
だが、それが何に成る。己が血肉によって彼等は力を増し僅かばかりとは言え貴重な戦力は対して失われるのだから。
それに気付ける程戦馴れしてはいなかったのが娘にそれを悟らせるに至らぬ結果となったまで。
それは、仕方の無いこと────では、あったが。
「それでも」
その場にあらざる異質な音が講堂に広がる。
いつの間にか、扉すら開いた気配も無かったというのにそこにそれはいた。
敬謙なる信者が座して祈りを捧ぐ椅子にどかりと腰を下ろす、その様は王者のそれ。
「誰しも判断間違いはするものだ、お前が起こした誤った判断が罪に値することは…ない。だがオレの手を煩わせた事は些細ではあるがオレに対して罪ではある、な」
娘の唇がその声を聞き止めて、僅かにわなないた。何かを呼ぶ形を取りはしたがそれを声に出来る力は、ない。
「お前は、間違えた────いや、間違えてはいたが、だな。だから何も言うな」
娘の指がピクリ、と声の方を示す。
ヒュヒュ、と声にしたくともならぬ声が色の褪せた唇から漏れ零れた。
「もう大丈夫、お前は…帰るんだ」
その言葉は、何を指し示すのか。
その意味も理解せぬままに、玉座に座したそれ、が声を発した。
「お前は、誰?」
それは、明らかに上に立つ者のそれ、だ。
「私の領域を侵し浸食する事無くこの場へ入り込んだお前は、何者だ」
弱者を弄ぶ事を生業とする強者がからかいのままに気まぐれを向けたというべきか。
だが、その言葉は彼の機嫌を損ねるには充分すぎる材料であった。
「ほぅ…私の事をお忘れか?あれは…そう確か四、五世紀前程か。貴方が我が前に頭を垂れたあの情景を私は未だはっきりと記憶していると言うのに」
その声は、青年と言うには柔らかく、少年と言うには重く。
ぶわりと空気を揺らしてそこに響き渡る。
「莫迦な事を言う、人間風情が何百の夜を超え生きながらえる筈も無かろうが」
「……人だ、等と誰が何時言った?」
すう、と形のいい唇が笑みを引く。
立ち上がり、カツリカツリと石の床に靴を鳴らし彼は神の娘と人型の異形を間に女と対峙した。
青白い御影の肌に流れるは淡い月光の絹糸。その滑らかな髪は高く括られてもなおその背を覆い、細身の体は黒と見紛う深く暗い緋の長衣に覆われている。
そして、その射貫くほどに強い瞳は昏きを映す、トパーズ。
「この色を持つ者はクロニクルの中でも限られる、それを忘れるとは…バガモール夫人、禁を犯し人の血を啜って本来あるべき己まで忘れたか…憐れだな」
「何を戯れを言い出すかと思えば…色等着けてしまえは」
そう言いかけた女の口が、止まる。
固定された視線が彼を探るように舐め、しかしてそれは限界まで見開かれた。
「まさか、そんな…とうに死んだと伝え聞いた金の色を纏う主の末が何故此処に」
そう、失われたそれは直系の純粋。
だが、眼前にあるそれは、確かなその証。
「……確かに」
彼が、遠い何かを手繰る様に目を細める。
「確かに、死んだ。だがそれでも犯した禁はオレに静かなる眠りのときなど与えることは無く……餓え、渇き飢えてオレにまた新たな禁でこの手を染め上げることを強要し……オレはここまで、来た」
そして、瞬間。
その姿が、途絶える。
それは、余りにも刹那の出来事。
空気の流れも僅かな音もそのままに彼は女の傍らにその姿を現し。
色薄い唇を、女の白粉の乗った首筋に押し当て。
肌の上その唇が、僅かに踊る。
注がれた音に、女は戦慄した。
「そろそろ限界なんだ…食餌、させてくれよ」
甘い声とは裏腹な、冷えたその温度。
撥ね除ける暇も、意思の持つ本能的なそれを起こす余地すら与えず、人と判断するには発達しすぎた牙がズブリと肉を喰い破る。
「っぐぅ……お、おの…れ、この下賤がぁぁぁっ!」
ジャ、と伸びた爪が横薙きに払われた。だがそれが彼の肉を抉るより早くその姿が消える。
シャアァァ、と、まるで猫の威嚇声を太くしたような声を上げた女の眷属の異形が空を鈎爪で切り裂くが、それより高い場所で壁を蹴り空に浮いた彼が娘を抱えて女を見据えていた。
そこに向かい歩を進めようとした女の足下で何かビシャリ、と水音が立つ。見ればそれは黒い程に紅く服を染め、それだけでは飽き足らずドクドクと首から流れ落ち若干古びた意匠の沓を杯へと変えた。
「……まさか……お前は、お前は!」
首を抉り裂いたその傷は本来ならば時待たず治癒するものであるがそれを忘れてしまったかの様に彼のつけたその傷からは血が溢れ続ける。手で押さえても止まることの無いそれをそのままに女は初めてその瞳に弱者のそれを滲ませた。
だが、彼はそんな女の事など目にも留めず、離れた場所にあった懺悔室に簡単な結界を施すと娘をそこに置き、今はただ浅い意識を僅かに保つその瞳に向けて微笑んでみせる。
「もう平気だ、じきに終わるから今は…眠ってな」
そう言いつつ彼は手に納めた小さな壜の中身を娘の唇に注いでやる。見る間に出血を止め穏やかな息と共に娘の意識をひと時の眠りにつかせたその薬瓶を投げ、懺悔室の戸を閉めると彼は改めて女を、見た。
その、振り向いた姿を射止めて、女は嘆願とも虞れとも取れる声を、零す。
「金の髪に金の瞳…もはやあの方のみと思っていたと言うのにまさか、あの噂が事実とは……」
「ようやく思い出したか、だから年寄りは困る。長い永い時に飽きて暇潰しに禁である人の血に手を出すその行為がどんな罪かは知っているだろう。だがクロニ
クルの長であってもそれを犯した罪人を裁く事は出来ない…そは人の世の理成りとはあの男の言う通り。それに増長する貴様らを滅するために『教会』は誕生れ
たがせいぜいあの娘のレヴェルでしかない。だから……ではないが」
淡々と語っていたその唇がにやりと笑む。
「その禁故に同族喰いとなったオレにとって教会とのなれ合いは渡りに船。人喰いとなったヴァンパネラをオレが喰いクロニクルは罪人を裁く事無くその存在を消失させ教会は手を汚さずその被害を食い止めさせる────等価、と言うに割が合わないが」
彼の顔が、ふとその笑みを────消した。
「オレには必要なんだ、お前達の────ヴァンパネラの────命、が」
姿が、再び掻き消える。
女は焦りを隠す事も忘れ眷属の異形に向けて指を指し彼を阻もうと声を上げたが既にその場に女の血を受けし異形の姿はそのままに存在していない。
ざらとまるで精製の未熟な肌理の荒い砂糖のような灰が床へと流れて溜まり、その身体を貫いたのであろう彼の腕が中空に突き出されたままの形で止まっている。
その腕を引き戻し握った手の平の中を見て彼はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「……こんなんじゃ腹の足しにもならねぇよ」
転がし、指でつまんだそれは赤い結晶。
ヴァンパネラの永き命を支える。
それは核、であった。
「アンタのはさぞかし…美味いんだろうなぁ」
「おのれ………おのれおのれおのれぇぇぇぇぇぇぇ!」
逆上した女が一息に床を蹴った。赤黒く染まったドレスの裾が朱い雫を落としながら空を舞い、長刃のような伸びた爪が彼の喉笛を速やかに貫いたかに見えた────が。
カシャン、と音を立て爪は右腕に阻まれ一瞬の腕払いと共にその切っ先を根元より折り取られ。
女の身体の中心には深い穴がゴボリと黒い血を溢れさせていた。
「────────な……ぜ、ぇ…………」
「遅ぇよ」
彼の左手は幾ばくかの血に濡れて、その指には確かに赤い石が掴まれていた。
「じゃあな、老耄」
発せられた言葉が終わると同時に、女の身体がぴしりと白く固まる。先端から陽も刺さぬのに女はその身体を石へ変え、それをざらりと崩れさせ灰へと転じた。
路を外した時点でクロニクルでは有り得ぬものとなったそれは既に復活の懸念すら、ない。
取り出した、先とは違う色の水が収まった壜を二つ、出来上がった二つの灰の山にそれぞれ投げてやれば硝子の割れる音と共にそれが青い焔に覆われ、高熱でそれを昇華させて逝く。
「────腹、減った……な」
燐光に照らされて石が熱を持った様に明るさを増す。
彼が指で弄んでいたそれを口元に持って行ったその時、だった。