それは、大きな扉だった。
人を寄せ付けぬ威圧感を持ちながら何処か懐かしささえ感じさせるその扉。
あと数メートルでそれに触れ、開ける事が出来る距離に己の身はあるというのに。
この足は全く動こうとはしない。
何故だろう、と思いつつ扉を見続けていると、その扉の前に誰かがいる事に気が付いた。
身体を這う長く伸びた金の髪をそのまま床に流しすがる様に身体を扉に寄せるその姿。
右腕は肩口からもげた様に取り払われ、投げ出された左足も太股から下の質量を失っている。
何も身にまとわぬ姿は俗なモノを持たず、逆に清らかささえ感じられた。
その閉じられていた瞳が、不意に緩やかに開かれる。
底まで透かすような澄みきった琥珀の瞳が来訪者の姿を認め、微笑んだ。
『ああ…お前、こんな所迄きちまったのか』
その声は、男としては柔らかい羽毛、女としては重い刃として捉えられるようなモノ。
よくよく見れば、その身体も陰陽両の印を以て形を取っている。
それに気付かなかったのは、その存在がこの世界において完全なるモノでありうるからか。
『だめだろう?ここはお前の来るべき場所じゃ無い…お前はここに来てはいけないんだ』
そのヒト、は微笑んだまま虚空を指差す。
その場所が揺れ、見覚えのある風景がぼんやりと映し出された。
その光景は、紛れもなく子どもであった己が過ごした場所。
大切な家族と過ごしたその場所。
『道連れを持たなくても前へ進め、お前はお前の欲したものを手にしたんだから。だから…帰るんだ、お前のあるべき場所へ』
微笑む瞳が、はっきりとした言葉と裏腹に哀しく揺れる。
『ここは、お前がいてはいけない場所だから。お前が知らなくていい場所だから。だから……』
瞳から、綺麗な雫がこぼれて落ちた。
それでもそのヒトは微笑みを崩さぬまま、自分を見つめている。
『オレは、ここで消えてしまえばいい。だからお前は…独りで帰るんだ』
だめだ、と。
いやだ、と。
何かが心の関を切って溢れ出そうと感情を泡立たせた。
「 っ、 !」
言葉を出そうとしても、声帯は震えずそれはただの空白にしかならず。
抱きしめてその涙の内の哀しみを拭ってやりたいと脚を進めようにも全く動くことはない。
何故、そんな簡単な事すら出来ないのだろう。
ただ、あのヒトに笑っていて欲しいだけなのに。
もう、あのヒトの哀しむ姿を見たくないだけなのに。
二度と離れたくないだけなのに、ただそれだけなのに!
何故この感情を否定されるのか。
禁じられたモノと止められなければならないのか。
そんなことが出来る訳は無い、させはしない。
誓ったのだ。
地に堕ちようと、業火に焼かれようと。
愛しいアナタを決して離さないと。
「 …ぅ、 ……ぁ…ぁ、っ……ぃさ………ん」
ぎちり、と身体の筋肉が鳴った。
科せられている負荷を振り払う様に一歩、また一歩と前へ進む度悲鳴を上げるように皮膚か裂け血が落ちる。
「……ぇ、ど……に、いさ、ん」
その姿は、遠い記憶の底に見た絵画の殉教者の姿にも似て。
痛みは凄まじいだろうに、何故かその表情は柔らかに微笑んでいた。
反対に扉の前で微笑んでいたそのヒトは悲痛な声を上げてその進みを阻む。
『やめろ、お前はこっちに来たらいけない!お前をこの闇に堕とす訳にはいかないんだ!』
「い、ま…行くから、もう大丈夫だよ……もう独りになんかしない…させないよ」
『だめだ、だめだ来るな!来るんじゃな……っ!』
叫ぶ声は、かき抱かれる腕に消えた。
「ごめんね兄さん……でももう遅いよ。ボクはとっくにその扉に触れてしまっているんだから…判っていたんでしょう?何時かこの日が来る事を、アナタの手をボクが取り二人でこの扉を開けるこの時を」
そっと唇が、言葉を忘れわななくそれに触れる。
「大丈夫、全てが血に染まろうとも、歩む路が全て闇に堕ちようともボクは決してアナタを呪うことはない。これはボクが望んだこと、貴方を愛したボクが、貴方の為に捧げた誓い」
「……ア、ル……」
「さあ、戻ろう兄さん。この扉を開けてボクらが帰るべき場所へ」
言葉と共に、血に濡れた掌が扉に押し当てられた。
ゆっくりと重い音を奏でながら、扉は誘うようにその口を開き切る。
愛しきヒトを腕に抱き、ゆっくりと進むその路は滴る真紅の雫に染まり。
流れ床を這う黄金の髪の流れがその雫を全て掃き取り痕跡を消した。
それを全て飲み込んでしまうと、扉はまた重く音を響かせその戸を閉ざす。
そして、世界は何事もなかったようにゆっくりと役目を終えて、崩壊した。