「ほーら、やっぱりいった通りになっただろーがよ」
キッチンのテーブルを挟み苦笑するその声にアルはため息と共にナイフを置いた。
手元には切り損じてくずくずになったオレンジ一個分。
「だーから手で剥いて喰った方がいいってったんだ。よく熟れて皮も柔らかだって市場のおばちゃん言ってたんだしさ」
「でもたまには綺麗なのもいいかなぁ…と」
確かにその時はそう思ったのだ。
きらきらのカット硝子の皿にきちんと並んだオレンジの姿を想像したのだ。
だが…目の前のオレンジ達はそれを許してはくれなかった。
自分は不器用な分類には収まらない筈だというのに何故このオレンジは切る傍から潰れて崩れて原形を止めずナイフボードをジュースの海へと化するのか。
「あーあ、なんでだろ…」
くすくす笑ってエドが隣まで寄ってくる。へしゃげたオレンジを摘み上げると器用に皮を残して身を食み口に収めた。
「甘いけどイイ感じに甘酸っぱいや…それにこの色、名に違わず『血のオレンジ』だな」
あはは、と笑うその声に改めて見れば確かに散らばった果汁は赤く。
切ったオレンジの断面も触れていた指も同じ色に染める。
「うわ、なんかべたべたすると思ったら」
そのジュースは腕まで伝いシャツの袖をも染め上げていた。
慌ててシンクに向かおうとするその腕がぐい、と引っぱられる。
「勿体ない事すんな、貸せ」
「か、貸せ?かせってな……?!」
掴んだ腕をエドが口元に引き寄せた。とその指先に暖かくて柔らかいものが、ふれる。
ぴちゃ、と音を立てて付着した果汁を舐めるその姿はまるで猫のようで。
伏せた睫がそっと落す影がゾクリと何かを背に走らせる。
「ね、ねねね姉さん何してんだよっ!」
「だって勿体ねーだろが。オレンジだって無料じゃねーんだし、喰って貰うためにあの市場に並んでたんだし」
それも喰うから捨てんな、と無駄な努力の結果のオレンジを目と言葉で示すとエドはまたアルの腕のジュースをかたす事に戻ってしまう。
指から掌、甲、そして腕。
ペロ、と舐め上げツ、と舌を伝わせるその仕草は余りに扇情的で。
幾らそれが血を分けた肉親だと判っていても心の奥底に押し込めた願望が関を切りそうになる。
「ほれ、おしまい。洗ってこい」
気が済んだのかポイ、と掴んでいた腕を投げるとエドはへしゃげたオレンジに手を伸ばす。
「シャツは明日にでも洗うからたらいにさらし粉入れて水張っとけ」
「錬成すれば簡単じゃない」
その言葉にエドは少しだけ眉をすがめた。
「…それは最後の手段」
なるだけ錬金術には頼らない、それが今の生活を始める前にエドが決めた決まり事。
そして、その時からエドはアルに対して若干の距離を持って接し始めた。
普通のきょうだいにしてもよそよそしいその仕草は他人からみても不自然なモノで。
喧嘩でもしたのか、とよく聞かれもした。
はっきり言って少し大げさなそれ、が最近収まってきたが今日のような接触は今迄に一度も無い。
今迄あんな顔は見たことなかった。
まさかそんな表情をするなんて思いもしなかった。
それはまるで恋人同士がする、艶を交えたような行動。
「何だよ、早くやらねぇとシャツ本当に染みになるぞ」
じっと見ていた事が気に入らなかったかぶっきらぼうな口調でアルの方を叩くと袋からオレンジを幾つか取り出す。無残に切られたオレンジは既に跡形も無く、皮だけがボードの上に転がっている。
「何処行くのさ」
勝手口から出ようとするその背に声を掛ければ、本当に静かに返事が返ってきた。
「庭。これ喰ってくる……オレの事はいいから早く洗ってこい。腕、気持ち悪いだろ?何だったらシャワー浴びちまえ」
「……う、ん」
弟の返事を聞いたのか聞かなかったのか、エドはすたすたと勝手口を出、四阿のしつらえてある表の庭へと向かっていく。
その姿を見送ってしまって、アルはゆっくりと風呂場に向かった。
シャツを脱ぎ、言われた通りに水を張ってさらし粉を入れた桶にそれを押し込むと己の両腕を見つめる。
さわやかな香りであったはずのオレンジの香は何時しか甘ったるく濃厚に意識を捕え、
先刻のあの感触と衝動をありありと思い出させた。
「もう…何時までも誤魔化しきれないな……」
ザァ、とシャワーヘッドから冷たい水が溢れ、水滴を易々と弾く皮膚に当たり流れ落ちる。
一瞬肩をすくませるが半端に昂った精神と身体を沈めるにはちょうどいい、と温度はそのままに浴び続けた。
実の、きょうだい。
同じ血を持つたった二人きりの。
でも、この心につもる想いが何か違うと感じ。
いつしかあのヒトへの想いは深く深くどろどろとしたモノになり。
気付いたときには肉親へ向ける想いではなくなっていた。
タマシイを繋ぎ留めカラダを取り戻してくれた絶対神だから、と云う訳では無い。
一人の、ヒトとして。
愛して、いる。
あなたを、あなたを、ただ一人あなただけを。
「あなたを抱き絞めて、愛していると告げたら…どんな顔をするんだろうね」
目の前をただ進むあの気高くそして儚い姿。
自分以外誰にも見せない子どもの時から変わる事の無い笑顔。
その笑顔は、言葉を向けた時歪むのだろうか、それともまた笑ってくれるのだろうか。
悲しませたくはないけれど。
それがこの世界では禁じられた繋がりとなる事も判っているけれど。
この感情はもう、押え切れない。
「ボクはもうあなただけしかいらないんだよ、エド……」
何時も鋤き上げるように纏めた前髪が水を吸って重く崩れ、表情を覆う。
こぼれ落ちた彼の人へ伝えられぬ想いを乗せた言の葉は叩き付ける水音に紛れ、排水溝へと流れ落ちた。