そのボディは、余りにも全てを見通す様を、見せた。


「……これは」
 そう言って伸ばしかけた指を一瞬戻して、オレは目の前のそれをそれを持ち込んだ主を見遣る。
「珍しいだろう?お前ならそれを弾きこなせるんじゃないかと思ってね」
「あんたはそれしか言う事がないのか」
「久しぶりなんだからもう少しいたわりの言葉をだなぁ」
「その言葉はそのままそっくり返すぜ。珍しく現れたと思ったら」
「私だってそれなりに忙しいんだ」
「オレ達だってそれなりに、忙しい」
 売り言葉に買い言葉という奴か、オレはこの男の前に出るとこんな言葉しか発する事が出来ない。これで弟でもいてくれればまだ場の空気が和むのだろうが。
「そう言えば、アルフォンスの姿が見えないようだが」
「あいつなら缶詰。いつものあれと、それのミックスダウンにつき合ってる。帰宅予定不明のままもう三日経った」
「そうか」
 それきり、互いの言葉が止まる。
 仕方なしに入れた茶の湯気がゆるゆると揺れて、時間の経つのを告げるものだから。
「……で、それはオレのモノにしていいのか?」
 我慢出来なくなって、オレはその楽器を指差した。







   玻 璃 の 王    






「すいません、トラック5をコンマ3程下げてもらえますか?それから16はイレーズしてもらって構いません。18をコピーして、周波数変えて乗せましょう」
「了解、っと……これでどうだ?」
「……はい、有難うございます。これで終了です」
 そう言うと、アルフォンスはヘッドフォンを外して息をつく。
 重いドアを開けて外に目をやれば、木漏れ日が緑の隙間で輝いていた。
「お疲れさん、ほれ」
「あ、ありがとうございます」
 投げられた缶を危なげなく受け取るとそれを投げた相手に笑い返す。
「どうだ?調子は」
「流石にこの手の作業は苦手ですよ…サウンドディレクターは向いてないな」
「そうか?なかなか堂にいっていたけどな」
 くく、と帰って来た笑い声にアルフォンスは眉をひそめる。
「そう言うハボックさんだって、本業はこっちじゃないでしょう?」
「オレのこれは単なる趣味だ。あと実益も兼ねてるがな」
 ああ、と納得した様に頷いて、手の内にあった冷たい缶を額に当てるとアルフォンスは天を仰ぐ。
「兄さんの方が得意なんですよ…絶対音感だって僕よりも正確だし」
 いつもブースの向こう側で指示を出して来る兄の姿を思い出しながら、独り言の様に呟いた。
「コンマ以下のレベルで波長調整が出来るという事は、このプロジェクトで一番重要な所ですから」
「で、その後エドに連絡はついたのか?」
「いいえ、全く」
 このプロジェクトは、本来アルフォンス一人が関わっているものだった。それ故エドワードが来る必要は何処にもないのだが、その音造りの実力を買われてレコーディングの調整作業の一部を受け持っている。
 しかし、今回はその指示は無く。エドワードは一人、久々の長期オフとなっていた。
 だが、流石にこの部分には専属で行っていたエドワードの調整が必要であろうと自分で判断して、その兄に連絡を取ったのが二日前。しかし『出掛けて来るけど心配するな』というリターンメッセージが届いたきり電話も出なければ行方も掴めない。
「ついてれば今ここに座ってるのは僕じゃなくて兄さんです」
 はぁ、と何ともいえない息を吐き出して肩を落とす。
 こういった作業も出来ない事ではないのだが、何分扱っている素材が素材なだけに一種の拷問にも近く。耳奥で僅かにリフレインする音にすら疲労感を感じてしまう。
「でも、改めてこの作業の辛さを感じましたよ…いつもは素材を作るだけですから」
「エドはそれなりに楽しそうだがな」
「計算とか好きですからね」
「それだけじゃないと思うがなぁ」
 缶を開けて、口を付ければ冷たくて甘い珈琲が喉に落ちて来る。普段なら眉をひそめる甘さなのだが、今はそれすら心地よい。
「ハボックさんはこれでアップですよね?」
「ああ、明日にゃここともおさらばだ」
「いいなぁ。僕はまだ帰れそうもない」
「それでも、投げ出すことはしない、そうだろ?」
「そう、ですね」
 いつの間にかたなびいていた紫煙を目で追いかけ、アルフォンスは缶の残りを煽る。
「投げ出す事なんて、勿体無くて出来ませんよ」
 この心地よい疲労感は、何処か情事のそれにも似る。
 音が劣情を煽る、とは兄の言い草だがその感覚もこの時ばかりは理解出来るのだ。
 音という、魔物。
 アルフォンスの場合はその音という言葉に兄という文字も重ね合わせる事になるのだが。
「所詮は、魅入られし者、ですから」
 微笑むその瞳の奥には、何処かとろりと欲すら滲んで、いた。






 ひんやりとした闇の中、その場所にはただ音だけが満ちていた。
 ピアノの音に絡む弦の音が探る様に響き、止まりまた響く。
 やんわりとしたアロマキャンドルの光に照らされて、奏者は繰り返すその手を不意に止めた。
「…いや、ここで短調に移行した方がいいの、か?……それとも歪ませる方が……」
 スピーカーから流れ続ける音を止めると、構えたヴァイオリンをそのままに弓を置いてピアノの鍵盤を押す。幾つかのフレーズを流す様に弾き、それをヴァイオリンで改めて奏で上げる事を繰り返し納得がいくフレーズとなった所で初めてそれを五線譜の上に書き込んでいく。
 傍目にはただ単純めいた反復作業ではあるのだが、行っている者にとってこれほど複雑怪奇なものもない。
 己の音、と一言に言ってもそれが記憶の奥底に眠る音に何処かしら引っかかり、似てしまうのは否めない事だが、それすらを飲み込み自らの色に染めてしまう事が出来るか否か。それこそが音を作り上げるという事だ。
 ここでどう音を運ぶか、どう響かせるか、どう歪ませるか。
 それはその心の内にあり。
 その過程、生まれた曲が可となるか不可となるかも全ては己の采配一つ。
「ん……よし」
 さらさらと動いていたペンがふ、と止まった。
 その譜を何度か浚うとエドワードはヴァイオリンをチェストにそっと置き、一息で灯った炎を吹き消す。
 伸びをしつつ部屋を出、手にした書き上がったばかりの譜面を軽く弄びつつ一つのドアを開けた。
 間接照明を灯し、危なげなく進むその足取りがひた、と止まる。
 ばさ、と楽譜を投げ置くと、その落下点近くにあるケースに手を伸ばした。バチリと音を立てて留め金を外し、ゆっくりと蓋を開けていく。
「────────よぉ」
 淡い光の中、それは凛とあった。
 何処か冷ややかな────それこそ冬の女王のような高貴ささえも滲ませて。
 気高いその存在を理解しつつも、放たれる声は王者のそれ。
「これからオレが、お前の主だ。オレのこの手の内で、オレの思うままにその音を、紡げ」
 その強さは、まさしく支配者のそれ。
 だが、そんな言葉を向けつつも取り上げる手は限りなく優しい。
 目の高さに掲げたそれをひと撫ですると、よろしくな、と囁いて傍らのベッドに腰を下ろす。
 白を基調としたベッドメイクのそれは、この屋敷全てに置ける色調で。
 今は亡き母の面影が詰ったこの空間をエドワードはよく曲造りの場としていた。
 音叉を取り上げ、共鳴させた音を基準にし、慎重に調律を開始する。
 ゆるゆると、だが確実に行うそれは何処か儀式めいた仕草にも見えて。
 全ての音が完全に整ったのを確認すると、エドワードはゆっくりと瞼を閉じた。

 求めうる音階は、己の内に。
 求めうる流れは、己の内に。
 求めうる共鳴は、己の内に。
 内包されたそれ、を音と変えて外へ放つ。
 その一瞬を求め、中で何かが渦巻きざわめくのが判る。

 触れた楽器の温度の冷ややかさが、却って心地よいと思う程に高揚したこの感情は、決して悪いモノではない。
 強いて言えば、この場にかたわれがいない事だけが心残りか。
 構えた弓が、張りつめた弦に、触れた。
「さあ、存分に謡え────!」
 弓が軋みも上げずに滑り行く。
 予想以上のその音と響きに、エドワードは思わず喉を鳴らした。






 あれから数日がたっただろうか。
 スタジオ作業がはけたら来い、とごく簡略なメッセージと住所が書かれたメモがアルフォンスの元に届いたのはレコーディング作業もようやっと終わりを迎えた、スタジオにこもってからおおよそ十日、午前二時を少し回る頃。
 五線譜の裏に綴られたそれを今一度見つめ、続けてそれを持って来た目の前の男を見やってアルフォンスはいつもすみませんねと声を発した。
「全く、お前の兄はこの私をメッセンジャーに使うというその重大性を判っているのか」
「判っていると思いますよ、あなたがここに来る事を知って言付けているんですから────それよりも」
 にっこり、柔らかな笑みを浮かべていた瞳から、一瞬にして柔らかさが消える。
「あまり無体な事を言わないように……結ばれた契約の持つ効力で、僕はこの力をあなたの為に行使しているまで」
 声が、不意に色を変えた。
「歌った歌全て、実はゴーストの声だという事をお忘れなく…ロイ?」
 その声は、一瞥しただけでは確かに対峙している男…ロイ・マスタングの声そのもの。
 ただ聴いただけでは判らぬ程に発音や発声法まで似せたそれは、アルフォンスの持ちえた技術の一つでもあるのだ。
 その言葉に、ロイは苦い顔をして手を降った。
「…判っている。まあいい、もう終わったのだろう?早く行きたまえ」
「ええ、言われなくともそうしますよ」
 最後に浮かべた笑みは、皮肉でも何でも無いものへと転じていた事にロイは内心息をつく。
 あの男だけは、怒らせてはならない。
 そうすれば、己のこの世界での路は簡単に途絶えるのだ、と。
 何度忠告されても、何度己に言い聞かせてもあの男を怒らせたくなるのは如何なものなのか。
「全く、飽きないな……お前達は」
 回りのスタッフに挨拶しつつ去って行くその後ろ姿を見、ロイは悟られない様に、笑った。



 メモにあった住所は紛れもなく見覚えのあるもの。
 取り敢えず持ち込んでいた楽器等は車に積み込んで、まるで演奏会にでも赴くような装備そのままに車のキィを回す。
 先に事務所に確認したら案の定、2週間の休暇届が出されていた。
 今に始まった事ではないが、唐突すぎるのも考えものだと思いつつ車を走らせる。
 現在の時刻は三時。高速を使っても流石に着くのは夜明け近くになるなと確認すると、傍らに置いたミネラルウォーターのボトルを取り上げ、唇を寄せた。
 着替えや何かは合宿中のをそのまま持って来てはいるが、足りなければ買えばいい。
 楽器関連に必要なものは間違いなく揃っている。それに関しては何も問題ないだろう。
 白譜も必ず持ち込んでいる筈だ。
「一体何を思いついたのやら……」
 くす、と知らず笑いが零れた。
 夜半、ハイウェイに走る車はそれほど多い訳ではない。時折すれ違う車はそれぞれに向かうべき場所へと向かっているに違いないのだ。
 その僅かに流れる車のテールランプがやけに綺麗に見えるのはこれから起こるであろう事に期待する気持ちが齎している分もあるだろう。
 あの場所で、待つのはあの人ならば心に生まれる期待も人一倍。
 はやる気持ちを抑えつつ、アルフォンスはペダルを踏み込んだ。






 窓の外、傍らに見える水平線が少しずつ深い藍から澄んだ青へ変わり始める。
 夜明けが近いか、と思いながら、エドワードは本から目を上げ転がっていたベッドから身体を引きはがした。
 出立した、とスタジオから連絡を受けた時刻から逆算して、もうそろそろ着いてもいい時間になる。
 柔軟体操に近い動かし方で身体をほぐし、簡単に身支度を整えると冷たい水を一息に煽った。
 そして、もう一度調律を確かめてエドワードはそれ、を手に取る。
「さて、そろそろ始めますか…っと」
 ゆっくりと、窓を開けた。
 流れ込む空気は僅かに冷たいが身体を震わせる程ではない。洗いざらしのシャツでも充分な気温だったことに感謝しつつその大気をゆっくりと吸い込んだ。
 潮の香りが、ゆっくりと僅かな冷たさと共に肺を満たしていく。
 まだ空は夜の帳を残したまま、そのドレープの裾を淡く透かし始めて。
 そのまま、視線をすいと左手に掲げるそれに向けた。
 手の内で、それは未だ貴族のような存在を見せて。
 この、よもやすれば仰々しくなってしまいそうな楽器を、そう扱うのは何処か不自然な気がしたのだ。
 さらりと、自然な流れの中でこの音を流してこそ、この楽器の存在意義に繋がると。
 決して金持ちの道楽ではなく、全てに等しくそれを響かせてこそ、この楽器が生まれた意味があるのだと。
 そう想いを定めると、エドワードはそれを掲げ、構える。
 レストを固定し、何度めかの調律。
 この気温内で安定した事を感じ取ると、素足のままで地繋ぎのテラスに歩き出す。
 これの初めての演奏場所はここ、と最初から決めていた。
「では、始めますか」
 エドワードは弓を上げ胸を、張る。
 カウントは何処からも無い。唯己の内に流れる音の源流を静かに拾い上げ、それに添う様に音を生み出せばいい、ただそれだけ。
「Ein Walzer────Der Kaiser des Kristalles」
 静かに、それは静かに紡がれた言葉を先駆けにして、その音は夜明け前の清廉な風の中に放たれたのだ。








 少し遠くに見える水面が、淡く光に染まり出していた。
 車をガレージに入れると、アルフォンスは勝手知ったる様に歩き出す。
 勝手も何もここは父名義の別荘で、兄弟揃ってその鍵を貰い受けているのだから判り切ったものではあるのだが。
 石畳のアプローチを抜けたところで、耳を聞き慣れない音が掠めた。
 チェンバロのようなどことなく物悲し気な、金属的な音をさせるそれはアルフォンスの記憶の中には存在しない音の流れ。
 だがこの演奏の癖は紛れもなく兄のもので。
 不可思議に思いつつリビングに入ってみれば、満ちる夜明けの空気の中で投げ出される様に転がったベルト装飾のショートブーツと、散乱する幾つもの書き損じの手書きの楽譜。
 そして、開け放たれた扉の向こう、昇る朝日に照らされたそれは。
 光を孕み淡く輝く長い髪は風が遊ぶままさらりと背に流し、その身に纏うは洗いざらしのシャツにジーンズというラフな格好。
 そして、その手に支えられたそれは。
 昇る朝日と蒼い海の色を空かす、透明な透明なヴァイオリン。
 奏でられるそれは、物悲しくも柔らかな音で組み上げられた円舞曲。
 声をかける事を戸惑う程に、それは美しかった。
 聴覚も、視覚も、感覚すらも搦めとられて。
 その弓が動きを止めるまで、ただ見つめ続けるしか出来なかったのだ。





 すぅ、と最後の音が響きを止めて、弓がゆっくりと空を切る。
 固定していたヴァイオリンを下ろした瞬間、音もなく近づいたその腕が素早く奏者を抱きとめた。
「っ、ぅわ!あぶねぇっ!」
「……っ、貴方って、人は!」
 言葉を出すのももどかしく、怒りを吐き出そうとしたその唇に己のそれを重ね合わせる。最初から容赦はしなかった。深く、貪り尽くす様に舌を搦め咥内を探り尽くそうとしたの、だが。
 びしり、と頭に強い音。
「木瓜!少しは状況を考えんか!」
 唇を話してみれば、眉を跳ね上げ睨みつける兄の顔がある。
 このままでは機嫌を損ねるどころか強制送還されかねない。仕方無くアルフォンスはその身を引きはがす兄の動きに従った。
「……この感動を伝えようとしただけなのに」
「御託はこれを見てから言う様に」
 つい、とアルフォンスの目の前に差し出されたそれは先にエドワードが演奏していた楽器だ。
 やけに透き通った硝子のボディに金の細工が施されたそれは、間違いなく見覚えのある弦楽器の形をしていた。
「硝子の、ヴァイオリン…?」
 女性的なフォルムはそのままに、その素材を硝子へと転じたそれは、確かにヴァイオリンだ。
「ニュースで量産のめどが立った、とは聴いてたけど」
「…親父の野郎が何年分だかわからねぇ誕生日プレゼントだと抜かして持ってきやがった」
 オレの誕生日は冬だあの野郎が、と毒づいてはいるがそれなりに嬉しかったのか顔は綻んでいる。
「父さん、来た、の?」
「おう。これ置いたら演奏会があるとかですぐ出てったがな。ウィーンプラハザルツブルグの梯子だと」
「兄さん、拳で語ってないよ、ね?」
「馬鹿言え、そんな真似するか。茶だって出したわ」
 未だに上手く意思疎通の出来ていない父と兄が、知らぬまに顔を併せしかもいつもならば軽く口論になるというのに特に何も無かったという事実にアルフォンスは密かに胸を撫で下ろした。
「で、どうだった?」
 唐突に、言葉の繋がりもなくエドワードはアルフォンスの目を見つめる。
「一番最初にオレが作ったこの音を聴いた、気分は?」
「え?最、初…?」
「たりめーだ、木瓜」
 鼻を鳴らすと、エドワードは憮然とした態度で息をついた。
「試音は確かに親父に聴かせたが、曲作り出してからはここに籠りきりだ。この音はまだ誰にも聴かせてない。正真正銘生まれたて、だ」
 に、と笑うその顔に苦笑して返すと当然という様に腕を組む。
「最っ高……だよ、兄さん」
「当たり前だ!」
 このエドワード様に掛かったらどんな楽器だってお手の物よ!と笑うその手がインクと松脂に塗れている事に、アルフォンスは気が付いていた。
 この人の天才的才能は、持って生まれたものではあるがそれ以上に努力が重ねられて生まれて来たものだという事を誰より知っているのはずっと側にいたアルフォンス自身。
 透明で透き通った、裏表のないその音と想い。
 それは脆さにも繋がるけれど、それをそうはさせないのは、この人の心の優しさ故、だろう。
 その絶対の自信と強さ、優しさが、眩くこの人を輝かせる。
「…全く、敵わないなぁ」
 その手の内にある彼の分身のような楽器ごと抱きとめてアルフォンスは小さく囁きくつりと嗤う。
 小さく呟いた言葉に首を傾げた兄にその言葉の意図は悟られない様に、笑みを浮かべたままの唇をそっと、落とした。






「ところで、さ」
 テラスからリビングへと戻ったエドワードが、紙の束をアルフォンスに投げてよこす。
「それ、即興で何とかなるか?」
「………なんだよ、これ」
「さっきの譜面」
 言われてぱらぱらとそれを捲ったアルフォンスの顔が、見る間に青ざめていった。
「な、んだよ、これ……!」
 聴いた曲と譜面の印象が全く違うのだ。
 これでは余りにテンポが早過ぎではないか?
 ワルツというのは本来もっと、こう────────
 わなわなと震え出す両の手から何とか力を抜きつつ、アルフォンスは譜面の縁をパンと弾いて兄を睨みつけた。
「これの、何処が、ワルツなんだよ!どう見てもハチロクじゃないか!」
「平たくしたら三拍子。オレ流ワルツ」
「平たくするな!オレ流ってなんだよ!」
「で、出来るのか?ピアノ即興アレンジ。オレと競奏」
 首を傾げ、伺う様に見つめていたエドワードの唇が、不意に歪む。
「即興が無理、っつーんなら、オレの弾いた仮伴奏の音源もあるが?」
 どうする?と聴いて来るその声色は、確かに面白がっていた。
 出来ない、という訳が無い。
 いや、その選択肢等存在しない事を判っているのだ。
「…音源なんていらない」
「お、そうきたか」
 兄の瞳が、獲物を捕らえた仔猫の様に輝く。
「僕を誰だと思ってるんだ…譜面、コードだけのもあるんだろ?それ貸して」
「…五分待て。進行表作る」
「じゃあ、その五分で調整でもしておくよ」
 発せられた言葉が閉じると共に、互いに背を向けて動き出す。
 エドワードは座り込むと白譜にペンを走らせ始め、アルフォンスはリビングに鎮座するグランドピアノの蓋を上げ、軽く鍵盤を押していく。
 調律は流石に問題ないようだ。あとは己の指慣らしのみ。
 幾つかの曲の旋律を混ぜ合わせて指を鳴らす作業を繰り返していると、音もなく譜面立てに三枚程の紙が並べられた。
「大体五分前後かな。ピアノから入ってくれると助かる。Eから始まって、転調も有りだ」
「嘘つけよ。これフルで考えたら七分の曲だろ」
「ばれたか」
「全く……じゃあ十五分…いや、十分待って。ライン組むから」
 そう言ってペンを手に取りかけた瞬間。
「五分だ」
 憮然とした態度を持ってそれは肩越しに降り掛かった。
「…随分な事を言ってくれるね」
「お前なら出来る筈だ、お前がアルフォンスエルリックなら…な」
 にやり、と。
 浮かんだ笑みを見たその瞳は一瞬見開かれ、そのまま閉じられる。
「…その言葉、あとで後悔するなよ、兄さん」
 閉じた瞼が、ゆっくりと開きすがめられ。
 続けて薄くその唇に引かれた笑みは、決して趣味のいいモノではなかった。
 だが、それは戦線布告を名乗るには充分なモノ。
 アルフォンスは挑み掛かって来たそれに向かって素早く視線を走らせた。





 そしてきっかり五分。
 かたり、とペンを置く音が鳴る。
「はい、お待たせ」
「…流石に有言実行だな」
「それが、貴方の望みなら尚更…ね」
 にっこりと笑みを浮かべ、アルフォンスは視線をあわせず言葉のみで促す。
「奏るんだろ?さっさと準備したら?」
「……ああ」
 す、と背後にあった気配が流れ、暫しの余白の後にそれが傍らに佇んだ。
 視線の端に映るのは、風に流れ踊る黄金と、何処までも透き通る玻璃。
 瞬間、ピンと張りつめた空気に反応する様に、己の中のチャンネルがかちりと切り替わる。
 今、この空間に存在するのは、音楽家だ。
 そして、望まれた演奏は融和な妥協に彩られた物では無い、競演そのもの。
 兄という存在では無い、稀代の音楽家エドワード・エルリックがそこに存在し。
 そして己も、同じ事を望まれて今ここに存在する。

 側にいる事を、共に音楽を創造ることを望まれたその事を。
 その度に、理解し、認識するのだ。
 他の誰にも成し得ない、その場所を赦された、その意味を。

 ゆったりとした音譜が数小節奏でられた。
 突如それが拍数を変えて数を増やし挑み掛かる様に奔流と成して走り出す。
 言葉は、最早必要ない。
 感情を音に乗せ、思いを旋律に変えればそれで会話は成立するのだ。
 さあ、どう挑んで来る────?
 そう思いつつフレーズにアクションを加え、視線をやれば鋭く返るその、同じ彩の光。
 いつになく真剣なその瞳がす、と眇められ。
 張られた腕の先に伸びる弓が、唸りを上げる様に音を紡ぎ出す。
 ピアノの柔らかな音を切り裂く様に飛び込んできた、金属的な鋭い音。
 ヴァイオリンにあるまじきそれは、先に聞いたそれともまた違ったアレンジを加え、全くの別物と化してアルフォンスに襲いかかった。
 やってくれるじゃ────ないか。
 挑まれれば、受けるのみに非ず。
 齎されるモノ相当の対価を返す。
 妥協等赦させる筈もなく。
 類似点等有り得る筈もなく。
 それぞれに違う物でありながら、それを融合させ一つに組み上げるその、変化。
 それこそが。

 ふたりで造り上げる意味────なのだ。









 空気がゆるゆると強ばりを解いていく。
 構えていたヴァイオリンを下ろし、レストに収めるとエドワードはゆるりと振り向いた。
 ピアノの前、鍵盤に未だ指を置いたままの弟の指に己の指をそうっと重ね合わせ。
 己のそれより一回りは大きな肩に額をコツリ、と当てた。
「……さんきゅ、な。久々に全力出せたわ」
「それはどうも。僕も手加減無しで奏れて楽しかった。なにより────」
 ぐい、と腰に回された手に引き寄せられ、間近に迫ったその瞳は何処か鈍く火を灯して。
「貴方の、掛け値無しの本音を感じられたのが、嬉しい」
「……るせぇ、よ」
「全く、素直じゃないんだから」
 くく、と鳴った喉の響きが重なった皮膚からダイレクトに流れ込む。
 唯それだけなのに、僅かにぴくりと反応してしまった己の身体に舌打つエドワードの仕草を見つめながらその身体を抱込み膝の上に座らせてしまうと、淡く火照るその首筋に唇を落とし軽く口付けた。
「貴方の音をもっと────聴かせて欲しい」
 震える唇は、その合図だったろうか。
 普段ならば素直にならぬ腕の中の彼の人が、不意にアルフォンスの頤を持ち上げると濡れた瞳を向けて来る。
「聴きたいなら、その手で奏でてみせろ。オレも今はそういう────気分、だ」
 柔らかく、唇に重なった熱。
 腕の中の身体も、限界近く温度を上げて。

 お前だけに、赦すから
 その手で、早く触れてくれ
 今は、お前の音に溺れたまま、お前を感じたいんだ

 ちいさく囁かれた声に、アルフォンスはそっと優しくキスを返す。
「覚悟は、いい?そこまで言うなら僕も手は抜かないし、優しくするつもりもない」
「上等だ。手加減しやがったらぶっ飛ばす」
 嗤い合い、キスを繰り返しながら互いに回した腕に力を込めて。
 本当の音の競演はここから始まるのだと。
 互いの内に鳴り響く音の残滓が、魂に語りかけた。
 頭で感じるのではなく。
 身体で感じるのではなく。
 その、魂の根底に流れる本質で感じ取るからこその競演なのだ、と。








 数日後。
 一つの企画書が立案される。
 今まで影の部分で名を通して来た二人の事実上のデビュー作となるこの作品が齎す一つの事件、を。


 この時の二人は未だ、知るよしも、なかった。






 玻璃の王  2008.7.23

For chika sakaki


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